「神と共にいて」は神ではないのか
YouTubeで以下のご質問をいただいたので、その質問をそのままChatGPTに聞いてみました。
ヨハネ1:1「初めに、言葉と呼ばれる方がいた。神と共にいて、」(新世界訳より) という中の、 「初めに…」というのは、始まりも終わりもない神を示すことには使わない言葉である。よって、神とは別の存在を示す。 というのと、 「神と共にいて」という言葉も、 神とは別の存在であることを理解するための根拠として挙げられていました。 その点はどのようにお考えでしょうか。
上記についてのChatGPTの回答を見てみましょう。
ChatGPT「この解釈について、以下の点を考慮する必要があります。」
1. 「初めに…」について
ヨハネ1:1の 「初めに(Ἐν ἀρχῇ, en archē)」 は、創世記1:1と同じ表現が使われています。このフレーズは、時間的な「始まり」というよりも、創造が始まる以前の状態を指すことが多いです。
新世界訳の解釈では「始まりがある=神ではない」と結論づけていますが、これは必ずしも論理的に正しくありません。なぜなら、「初めに…いた」 という表現は、「言葉(ロゴス)」が創造の最初から存在していたことを示しており、言葉が「被造物」であるとは言っていないからです。むしろ、「初めにすでに存在していた」ことを示すため、永遠性を示唆するものと解釈することも可能です。
2. 「神と共にいて」について
「神と共にいて(πρὸς τὸν θεόν, pros ton theon)」の「πρὸς(pros)」は、親密な関係性を示す言葉であり、「言葉」が「神と対面していた」ことを表します。この表現が使われているからといって、「言葉」と「神」が本質的に異なる存在であるとは限りません。
例えば、三位一体の観点から考えれば、「言葉」は御父とは区別されるが、神性を持つ存在であると解釈できます。実際、ヨハネ1:1の最後の部分では 「言葉は神であった(καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος)」 と明言されています。
3. 結論
「初めに…」という表現は、必ずしも「言葉が神とは別の存在である」ことの証明にはなりませんし、「神と共にいて」も「神とは異なる存在である」と直ちに結論づけるのは適切ではありません。文脈を考慮すると、むしろ**「言葉」は神と共にあり、かつ神であった**と読むのが妥当です。これは歴史的に主流となってきた解釈でもあります。
エホバの証人の神学では「言葉=イエス」が「神とは別の被造物」であるとする立場を取りますが、ヨハネ1:1の原文や文脈を考えると、その解釈には疑問が残ると言えるでしょう。
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私自身がどう考えているかを土台にして討論することはいくらでも可能ですが、それよりも公平かつ中立的な立場からAIに回答を出してもらうのが妥当なのかもしれないですね。
そういう意味でChatGPTが有用と言えます。