聖霊は人格的な存在ですか?それとも神の力ですか?
エホバの証人を出た後教会に行き始めて、その後三位一体を理解していく過程で最後の砦のように感じるのが「聖霊様」と呼ぶことです。聖霊が人格的な存在であることはどのように認めることができるのか、エホバの証人の時には決して出会うことのなかった聖句がローマ8:28です。そこをメインテーマとしながら考えてみましょう。
Q:聖霊は人格的な存在ですか?それとも神の力ですか?
聖霊は聖書において「人格的な存在」として描かれています。これは、聖霊が単なる神の「パワー」ではなく、知性・感情・意志を持つことが示されているためです。
1. 聖霊の知性
- ヨハネ 14:26:「しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださる。」
- 聖霊は教え、思い起こさせる働きをするため、知性を持つ存在であると分かります。
2. 聖霊の感情
- エペソ 4:30:「神の聖霊を悲しませてはいけません。」
- 聖霊が「悲しむ」ことができるということは、感情を持つことを示唆します。
3. 聖霊の意志
- 使徒 16:6-7:「それから彼らはアジアで御言葉を語ることを聖霊によって禁じられた。(中略)彼らがビティニアに行こうとしたとき、イエスの御霊はそれを許されなかった。」
- 聖霊が特定の行動を「禁じる」「許さない」という判断をすることは、意志を持つことを示しています。
4. 聖霊の人格的な働き
- 聖霊は語る(使徒 13:2)
- 聖霊は執り成す(ローマ 8:26)
- 聖霊は導く(ヨハネ 16:13)
これらの聖句から、聖霊は神の単なる力やエネルギーではなく、人格を持つ神の第三位格であることが分かります。
一部の異なる解釈について
エホバの証人やキリスト教以外の一部の宗教では、聖霊を「神の活動する力」として非人格的に捉えます。しかし、聖書の描写を見ると、聖霊は人格を持つ存在として働いていることが明確です。
結論として、聖霊は単なるパワーではなく、人格的な神の存在であると理解するのが聖書的な見解です。
Q:聖霊は執り成す(ローマ 8:26)について、神のパワーでありながらとりなすことは可能ですか?
ChatGPT:
**「聖霊が執り成す」(ローマ 8:26)**ということについて、もし聖霊が単なる神のパワーであるなら、「執り成す」という行為をどのように理解するべきか、という問いは重要です。
1. ローマ 8:26 の聖句の意味
ローマ 8:26(新改訳2017)
「御霊も同様に、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって執り成してくださるのです。」
この聖句では、**聖霊が「執り成す」**と明確に記されています。ここで重要なのは、
- 聖霊「ご自身」が執り成すと述べられていること。
- 「うめきをもって」(人格的な感情表現)執り成すこと。
「執り成す(ギリシャ語: ὑπερεντυγχάνει, hyperentynchanei)」という単語は、単なる力の作用ではなく、主体的な介入を意味する言葉です。もし聖霊が単なる神の力なら、「神の力が神に執り成す」という不自然な表現になってしまいます。
2. 執り成しは人格的な行為
「執り成す」という行為自体が人格を持つ存在でないと成立しません。聖書の中で「執り成す」と言われる存在は、次のような人格的な存在ばかりです。
- キリストの執り成し
- ローマ 8:34:「キリスト・イエスが神の右の座につき、私たちのために執り成していてくださる。」
- キリストは明らかに人格を持つ存在として執り成します。
- 人間の執り成し
- 出エジプト 32:11-14:「モーセは主の前で執り成しをして言った…」
- モーセも人格を持つ存在として執り成しています。
この文脈において、「聖霊も執り成す」という表現がある以上、聖霊も人格的な存在であると理解するのが自然です。単なる「力」や「エネルギー」が執り成しをすることは、論理的に難しいからです。
3. もし聖霊が「神のパワー」なら矛盾が生じる
「聖霊が神の活動する力である」と考えた場合、神の力が神に対して執り成すということになり、不自然です。たとえば:
- 「電気が発電所に執り成す」
- 「風が天候に執り成す」
といった表現は意味を成しません。力やエネルギーは意志を持たず、仲介的な行為をすることはできないからです。
4. まとめ
聖霊が「執り成す」という行為は、人格を持つことを前提としたものです。単なる「神のパワー」ではなく、知性・意志・感情を持つ神の位格としての聖霊が働くからこそ、「執り成す」ことが可能となります。
したがって、ローマ 8:26 の「聖霊の執り成し」は、聖霊が人格的な存在であることを強く示す聖句の一つであると言えます。